「ファイターのデビュー戦」の第10回は、ミュンヘン・オリンピック出場の実績を引っさげ、日大講堂という大会場で外国人選手相手という破格の扱いでデビューした長州力の巻。
長州力というリングネームは海外武者修行から帰国後に一般公募によって決定した名前であって、昭和49年8月8日のデビュー戦は吉田光雄という名前で行っています。
今では広く知られていることですが吉田光雄という名前は日本名であって本名は郭光雄、在日コリアン二世です。
随分前、大体、15年ぐらい前に別冊宝島のムックで読んで「やっぱ、長州はカッチョええなあ!」と血が騒いだエピソードを紹介しましょう。
「朝まで生テレビ」という番組で「日本、韓国、北朝鮮」というテーマが話し合われた時のこと、パネラー達がさんざっぱら喧々囂々と意見を述べた後にスタジオの観覧席に腕を組んで座っている長州力をカメラが抜いたそうです。
そして番組アシスタントが長州にマイクを向けて「長州さんは、どういった意見をお持ちでしょうか」のようなことを訊いたそうです。
そして長州の答えは、「俺からは何も。俺は差別されて強くなったと思ってる」。
これを長州力が言ったら、後は誰も何も喋れねえだろう(笑)。
さて、ミュンヘン五輪にグレコローマン・レスリング100キロ超級日本代表で出場したのは中央大学の鶴田友美(ジャンボ鶴田)ですが、専修大学の長州は同じくグレコの100キロ(以下)級に郭光雄として韓国代表で出場しています。
長州は1951年/昭和26年12月3日生まれで、ジャンボは同じく1951年3月25日生まれ。
長州の大学在学中に全日本プロレスから勧誘の話しもありましたが、長州は一学年上のジャンボに激しいライバル意識を持っており、昭和47年10月に全日本プロレス入団、翌48年3月にデビューしたジャンボがいる全日本よりも新日本を選択し、昭和48年12月に新日本プロレス入団、翌49年8月にデビューします。
日大講堂でのデビュー戦の相手はギリシャ人のエル・グレコ。
この選手は「長州力のデビュー戦の相手」というピンポイントでプロレス史に名前を刻んでいます。
とにかく、このデビュー戦で特筆すべきは決まり手が「サソリ固め」であること!
長州力の十八番の必勝パターンというのは、「バックドロップ → リキラリアット → サソリ固め」です。
バックドロップは昔はルー・テーズの代名詞でしたが今では誰でもやる技です。
リキラリアットも元はスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアートですから長州のオリジナルではありません。そして今では誰でもやります。
サソリ固めこそが長州力オリジナルで、昭和50年代終盤の「長州ー藤波 名勝負数え歌」で藤波に「掟破りの逆サソリ」をかけられるまで長州以外の選手は一度として使ったことがなかったオリジナル中のオリジナル技です。
そのオリジナル・ホールドで新人がデビュー戦を飾ってしまった。
○吉田光雄(5:24 サソリ固め)エル・グレコ●
これが長州のデビュー戦です。
今時の第一試合から大技の応酬が展開されるプロレスではなく、昭和49年の、第一試合からバックドロップやブレーンバスターなどの「当時の大技」を出そうものなら先輩達にボコボコにシバキまわされた時代にオリジナル・ホールドでギブアップ勝ちデビュー(笑)。
どれだけの大物扱いかが窺い知れます。
この後、吉田光雄は海外武者修行に旅立ち、凱旋帰国後に新日本プロレスかテレビ朝日がリングネームを公募しました。
そして30万通を超える応募の中から採用されたのが吉田光雄の出身地、山口県にちなんだ「長州力」。
長州力というリングネームでの初陣は昭和52年4月23日で、吉田光雄でのデビューから3年近く経った時でした。
しかし、長州力となってからも更に長い間、爆発的な人気が出ることはなく新日本プロレスという組織の中で「北米タッグの坂口の相方」という位置に落ち着いてしまっていました。
長州が真のトップレスラーへと駆け上がる発火点はメキシコでの長期武者修行から「革命戦士の鬣(たてがみ)」、長髪をなびかせて凱旋帰国したシリーズ開幕戦、後楽園ホール大会での「噛ませ犬発言」で昭和57年10月です。
吉田光雄でのデビューから8年ちょい、長州力となってから5年半後のハイスパートなスターティング・オーバーでした。
なお、(オリンピック・グレコ代表の)吉田光雄のデビュー戦の相手のエル・グレコ、そして長州力というリングネームでの再デビュー戦の相手のリッキー・フェララ、ともに名前で決めたんじゃねえの?と思うのは私だけでしょうか。

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