川端康成の文芸作品の中には二度以上に渡って映画化されている代表作が実に三作もあります。
「雪国」は、「岸恵子ヴァージョン」(1957)と「岩下志麻ヴァージョン」(1965)
「古都」は、「岩下志麻ヴァージョン」(1963)と「山口百恵ヴァージョン」(1980)
そして、Wikiによれば、「伊豆の踊り子」にあっては何と!六回も映画化されています。
「田中絹代ヴァージョン」(1933)
「美空ひばりヴァージョン」(1954)
「鰐淵晴子ヴァージョン」(1960)
「吉永小百合ヴァージョン」(1963)
「内藤洋子ヴァージョン」(1967)
「山口百恵ヴァージョン」(1974)
このうち、私が観たことのあるのは、
「雪国」with 岸恵子
「古都」with 岩下志麻
「伊豆の踊り子」with 吉永小百合
「伊豆の踊り子」with 山口百恵
の四本です。よって私が比べて観たのは「伊豆の踊り子」のみ。
私が観た「伊豆の踊り子」は吉永小百合版が先です。吉永小百合版と山口百恵版の間には内藤洋子という人の一本があり、その一本の演出がどうなっていたのかは知る由もありませんが、山口百恵版はかなり細かいところまで吉永小百合版と同じように作り込んでいます。
違うのは冒頭とエンディングのみ。
「伊豆の踊り子」という物語は、大学の老教授が四十年前の二十歳の時、伊豆を訪れた際に想いを寄せた旅芸人一座の十六歳の少女との短い日々のことを語る回顧録です。
語り手の「私」は、現代よりも大学に進む人間の絶対数がはるかに少なかった大正時代に「書生」であったスーパーエリートで、踊り子は、とある村の入り口に「乞食と旅芸人、村に入るべからず」という看板が立てられているほどに差別が激しかった時代に人並みの幸せを夢見ることが許されなかった純情無垢な少女です。
いわゆる「身分の釣り合わない恋愛」。
「身分の釣り合わない恋愛」は、"Pretty Woman"や"Coming to America"のように成就することもあれば、"Roman Holiday"や「海は見ていた」のように、それぞれの道に戻ることもあります。
そして「伊豆の踊り子」はまさに後者です。
吉永小百合版と山口百恵版は、本当に、細かいシーン、風景、小道具、台詞、衣装からカメラ・アングルに至るまで演出はそっくりです。
しかし、主演女優が違えば当然ながら印象も変わります。甲乙をつけるとすれば、あくまでも個人の好み次第でしょう。
日本一の吉永小百合ファンを自称するタモリだったら吉永版を推すだろうし、山口百恵にとことん憧れて育ったさくらももこだったら山口版に清き一票を投じるでしょう。
二十歳の書生は吉永版では高橋英樹、山口版では三浦友和で、二人とも真面目で柔和で何よりも誠実な青年を演じています。
しかし、非の打ちどころのない好青年の振る舞いの中に、時代性ゆえに責めることの出来ない無意識下での差別が垣間見えるシーンもあります。
二本の違いは冒頭とエンディングのみ、と前述しました。
両作品とも儚い恋物語から四十年、経って老教授となった語り手は宇野重吉です。
吉永版では冒頭とエンディングに宇野重吉が老教授姿で登場しますが山口版ではナレーションのみです。
そしてエンディングの大きな違いとして、とてつもなく印象深いのが、踊り子の少女のこれから先のつらい人生を暗示する山口版のストップ・モーションです。
吉永版は都会に佇む宇野重吉の姿のカットで終わるので、老教授が「あの時の伊豆の踊り子の少女は、どのような人生を送ったのだろう」と決して愉快ではない筈の想いを巡らし、自らの老いをも噛み締める「引き」です。
一方、山口版のエンディングは三浦友和が東京に去った後、日常の旅一座の生活に戻った踊り子の少女がお座敷で酔っぱらいに抱きつかれてイヤな顔をしているストップ・モーション。
観る者に、少女のこれからの決して明るいとは言えない人生に想いを巡らすことを促す終わり方です。
どちらが悲しいかと言ったら、これはもう山口百恵ヴァージョンです。

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