前編で、エリオ・グレイシーの師匠はコンデ・コマ(前田光世)である、と書きましたが、これは100%正確な書き方とは言えません。
ガスタオン・グレイシーは五人の息子達をコンデ・コマに弟子入りさせましたが、直接、コンデ・コマの指導を受ける機会が最も多かった弟子は長男のカーロス・グレイシーで、五男・エリオはコンデ・コマ柔術をカーロス経由で学んだという言い方のほうが正確です。
1913年生まれのエリオが16歳の時に、カーロスがプライベート・レッスンの指導に遅刻した際、代わりに指導を行い、「可能ならば、これからもエリオに個人指導を願いたい」と申し込まれたのがエリオの指導者としてのスタートです。
ここから先、指導を通して、170センチ/65キロの軽量の自分でも体重差のある剛の者相手に勝てる「力に頼らない柔術」を練り上げて、「グレイシー柔術」の技術体系を築くに至ります。
エリオはグレイシー柔術の強さを証明するために一流日本人柔道家との組み技ルールの試合や組み技競技の枠内に留まらない、ヴァーリ・トゥード(なんでもありの闘い)の試合にも打ってでました。
そのプロ格闘家としてのキャリアはトータルで19試合。
1951年のあまりにも有名な、ブラジル人と日系人の代理戦争にまで発展した、「柔道の鬼」木村政彦との死闘はエリオのプロ・キャリア17戦目です。
デビュー戦は1932年、18歳の時で相手はAntonio Portugalというプロボクサー。
ボクサー相手ですから当然、打撃ありのバーリ・トゥード・ルールで行われ、アームロックで開始僅か30秒の秒殺で勝利しています。
この歴史的デビュー戦の相手の資料は、出来ることなら身長/体重/年齢ぐらいは知りたいところですが、名前とプロボクサーであったという点以外、残念ながら出てきません。
デビュー戦が、このアントニオ・ポーチュガルであったとされる説では第三戦目の相手がFred Ebertというレスラーですが、このフレッド・エバート戦こそがデビュー戦であるとする説もあります。
フレッド・エバートという選手は1928年度レスリング世界選手権95キロ級二位のアメリカ人プロレスラーで、エリオとの試合時は100キロを超えていたと予想されます。
試合は10分14ラウンドの形式で午前零時に始まり、ブラジルの法律上、深夜二時以降のパブリック・イベントは禁止されているため、第12ラウンドが終了した午前2:10に警察隊が試合と大会終了を命じて引き分けとなりました。
試合後、エバートは顔面ボコボコで病院に搬送され、エリオは試合を通してエバートをシバキ続けた肘を青く黒く変色させて帰宅したそうです。
よってエリオ・グレイシーの歴史的プロ・デビュー戦は、30秒での一本勝ちか、2時間10分、優勢に進めての引き分けのいずれか、ということになります。
どちらであるにせよ、その後、ほぼ倍近い体重の巨漢との闘いや、レスリング世界選手権覇者との試合などを含め、19戦の戦績は10勝2敗7引き分け。
デビューから運命の木村政彦戦にいたるまで20年近くに渡り不敗で、ブラジル国民の英雄でした。
2敗は伝説の木村政彦戦と、木村戦から4年後、43歳の時の元・弟子、Valdemar Santanaとの遺恨試合で、サンタナ戦は、桜庭ーホイスの90分に渡る死闘の2,5倍の3時間42分に及び、エリオが疲労と衰弱で続行不可能となり敗れています。
この3時間42分の消耗戦は総合格闘技の最長時間の世界記録であり、MMAが競技として確立された現代以降、この記録が破られることはないでしょう。
木村政彦戦はエリオの「これだけ強い男と闘ってみたい」という希望が結実した試合です。
あまり知られていないことですがエリオの息子、ヒクソンは異種格闘技戦華やかなりし頃のアントニオ猪木に何度も挑戦表明をしています。
ヒクソンの挑戦は結実しませんでしたが、エリオの「最強の男」木村への挑戦は、木村が「俺が出るまでもない」と差し向けた関門である加藤幸夫五段とのいわゆる「査定試合」を絞め落としてクリアーしたことにより受け入れられました。
月刊格闘技誌、"GONG KAKUTOGI"に私のようなハードコアなマニアには本当にたまらない、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」というタイトルの連載があります。
これは、北海道大学柔道部で高専柔道の流れを汲む寝技中心の七帝柔道を経験した増田俊也(としなり)というノンフィクション作家の筆によるもので、ゴンカク最新の五月号の連載第27回は、まさに/いよいよ、伝説の木村ーエリオ戦の模様が「海を渡ったサムライたち」という巻頭特集の筆頭で12ページに渡って書かれています。
この最新号は表紙からして、1951年10月23日、当時、全世界最大のスタジアムだったマラカナン・スタジアムで行われた伝説の一戦の試合場であるマットに上がる直前の木村政彦の余裕の笑顔のアップのデザインとなっています。
私は、この増田先生の連載のクライマックスとも言える今回の寄稿だけでも定価940円の価値あり、と思って購入しましたが、実に全く予想通りで、私は今のところ、この連載第27回を何度も繰り返し読んだだけで、他の記事はまだ一切、読んでいません。
エリオ個人にとってもグレイシー一族にとっても総合格闘技の歴史にとっても、あまりにも重要な、この一戦は増田先生が書き切っており、私がどう書こうとも引用になってしまうのですが、重要なのは、
エリオ・グレイシーは木村政彦という大きな男に闘いを通して惚れ込んだということ
木村もまたエリオ・グレイシーの闘魂に日本柔道界が失いつつあった侍を見たこと
グレイシー一族はエリオを倒した木村を尊敬し、この敗戦を誇りに思っていること
です。
ホイス・グレイシーなどは桜庭との決戦以前、日本での小川直也戦が取沙汰された時、「小川選手とあなたの試合となれば、木村政彦対あなたの父であるエリオ・グレイシーの試合とオーバーラップしてしまうのですが、あなたご本人はいかがでしょう」と質問され、キッと目を剥いて「キムラの方がオガワよりはるかに強かったと思います!」と答えたそうです。
伝説の試合は木村が圧倒的な実力差を見せた後に、腕絡みでTKO勝利を上げます。
これまではセコンドの長兄、カーロスがタオルを投げたということになっていましたが、実際はカーロスがマットに駆け上がってエリオの代わりに木村の体をタップしたのだそうです。
この決まり手の腕絡み(肩極めアームロック)はこれ以降、敬意を持って「キムラ・ロック」と呼ばれるようになり、今では短縮されてKimuraで通っています。
専門用語として、Kimuraは英語であり、ポルトガル語であり、日本語であり、格闘技用語の万国共通語です。
ちなみに桜庭和志が得意とする、バックを取られた状態から相手の腕のクラッチを切って一気に切り返すアームロックは、"Sakuraba-style Kimura"として万国共通です(笑)。
アメリカ人とブラジル人の中には、我が師匠、スティーヴ・マックスウェルのように、木村政彦を"Great Kimura"、ないしは"Sensei Kimura"と呼ぶ人達もいます。
伝説の木村対エリオ戦の試合映像は全13分20秒のうち、2分弱だけが現存しており、"Gracie in Action"という、1993年のUFC勃興より遥か前に制作されたビデオに収められています。
私の柔術の師匠のスティーヴがレスリングから柔術にコンバートしたキッカケはこのビデオです。
この試合映像は動画サイトで観覧可能ですが、昔ならではの組み手争いをしないで組み合う立ち会いからの木村の、大外刈り、パス、横四方の素早い流れはブラジル入国以降、ほとんど全く練習をしていなかったとされる人間の動きとは思えません。
このビデオのナレーションは試合直前の木村政彦の姿に被せ、こう紹介しています。
Kimura, the best Jiu-Jitsu fighter that Japan has ever produced.
そして95歳で去年の一月に大往生されたエリオは晩年、こう語っています。
増田先生の連載からそのまま転載させていただきます。
「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との闘いは私にとって生涯忘れられない屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」
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