私が贔屓にしている格闘技動画サイトに先日の船木ーデュラン戦に続いて懐かしい試合がアップになりました。
1995年12月9日、名古屋レインボーホール、K-1 ヘラクレスにおける田村潔司の大出世試合、対パトリック・スミス戦です。
この試合は、東京ドームに67,000人の大観衆を集めて大成功を収めた歴史的一大イベント、「新日ーUインター全面対抗戦」から丁度、二月後に行われたK-1の興行に、一試合だけ組み込まれたヴァーリ・トゥード戦です。
オープン・フィンガー・グローブ無しのバンテージのみで顔面パンチあり、そして裸足なのでスポーツ的に認知された言葉、"MMA"というより"Vale Tudo"(何でもあり)の闘いです。
当時の田村は社運を賭けた新日との対抗戦出場を頑なに拒否し、Uインターという会社で干された状態でした。
我々がやっていることと新日がやっていることは違う、違うことをやっている者同士が優劣を決めるのはナンセンスである、という主張の例えで、
「ラーメンの職人とうどんの職人の、どっちが上かを決めようとするのはおかしい」という有名な田村語録が出た頃です。
とにかく、田村以外のUインターの選手が、例え、やりたくなくても社命に従っている中で、一人だけ逆らっている訳ですから、孤立の憂き目にあい、表舞台を用意してもらえない状況でした。
その田村に千載一遇のチャンスを与えたのが当時のK-1の最高責任者、石井和義正道会館館長です。
石井館長がUインターに田村出場のオファーを出した時、Uインター側は、安生をお願いしたいと返事しました。
しかし、石井館長は「田村に出てもらいたい。他には興味なし」と答え、ある意味、田村の念願の「真剣勝負」が実現します。
相手のパトリック・スミスはUFCで自分の拳の骨折にアドレナリン多量分泌で気づかず、対戦相手の顔面を馬乗りから13秒だかで50発だか殴ってKOしたことのある危険な相手です。
田村にとっては勝てば英雄、負ければ10・9の大将戦で武藤に敗れ去った高田以上のA級戦犯扱いが待っているイチかバチかの人生を賭けた大勝負でした。
試合は圧縮された空気に支配された一分ほどで、田村がヒールホールドを極め、勝ち名乗りを上げます。
そして、新日ーUインター全面対抗戦開催発表以来のあらゆる感情を大解放/大爆発させて涙を流します。
その後、桜庭との伝説の第一試合三番勝負を経てリングス移籍までの半年間は、あっという間でした。
あのパトリック・スミス戦の激勝がもしなかったら、私が田村潔司、そしてリングスに乗ることはなかったでしょう。
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